職場はいま 各支部リレー〈14〉
都の福祉施策は後退 攻撃を押し返す運動を
東村山ナーシングホーム 養育院支部
東村山ナーシングホームは、1988年7月に開設され、特別養護老人ホーム定員161名、老人保健施設定員50名の利用者の方の日常生活を、管理部門含め約130名の職員が担っています。
利用者の方は、要介護4・5の方が約7割を占め、生活全般に医療的ケアや認知症対応などきめ細かな介護が必要です。そのため、介護職員の半数が看護師で配置され、医師も常駐しています。
東京都直営の唯一の高齢者施設に
このような介護体制は、民間施設では行えません。また、板橋ナーシングホームが2015年3月末に廃止されてからは、都立直営の唯一の高齢者施設となりました。
東京都は、2014年6月、定例都議会に「東京都東村山ナーシングホームの民設民営施設への転換について」を報告。2014年8月に事業者公募、2017年度末、民間法人での開設とされています。これに伴い、東村山ナーシングホームは、廃止の予定です。
しかし、特別養護老人ホームの待機者は、東村山ナーシングホームだけでも370名以上あり、東京で4万3千人を超えています。都の計画でも、10年間で6万人も特別養護老人ホームの定員を増やすとしています。
そのため、養育院支部と東村山分会は、東京都の高齢者施設運営からの完全撤退を許さず、新たに都直営での高者施設の建設を求めていく運動を、地域の団体・個人の方とつくる「東村山の福祉・医療の充実を求める会」に参加して、進めていきます。
また、東村山分会は伊丹分会長を先頭に職場の組合員に寄り添い、欠員補充などの切実な要求の実現に向け、分会一丸となって活動しています。
東京の福祉の発展に大きく寄与した歴史
「養育院」という名称は、東京都の行政組織からは無くなりましたが、その歴史は、東京の福祉の発展に大きく寄与してきました。
1872年(明治5)10月、東京府内の生活困窮者の保護事業の一環として「東京営繕会議所付養育院」が設立され、事業を開始。1876年(明治9)に東京府営となりました。その後、児童・母子・障害を持った方、高齢者など、その時代の社会が要請する事業を先駆的に手がけてきました。
板橋の施設は、1945年4月の空襲で107名の犠牲者を出し、施設の9割が焼失しましたが、終戦直後には、板橋本院で医療事業を再開しました。
1952年11月、生活保護法による養老施設「東京都養育院東村山分院」を定員90名で事業開始。1986年6月、東京都多摩老人医療センターが開設。医療・福祉の総合施設として発展してきました。
都政「リストラ」攻撃のもと、老人医療センターの地方独立行政法人化、多摩老人医療センターの東京都医療公社への移管、板橋ナーシングホームの民間移譲が進められ、東京の福祉施策は大きく後退してしまいました。支部は、この攻撃を押し返す運動を、引き続き進めていきます。 |